住職の窓 つれづれなるままに


住職の窓

開設・・平成23年春彼岸

「住職・叫びの窓」を開設して1年になろうとしております。「情けないなあ。僧侶として言いたいことは一杯あるはずなのに」と口惜しく思います。
 東日本大震災が昨年の3月11日起こってしまい1年になろうとしております。副住職は被災地に行って供養のお手伝いを仲間と一緒にしてきました。その様子を写真で見ました。この災害は「命のはかなさと尊さ」を同時に教えてくれています。
 機会あるごとに物故者の成仏と被災地の早期復興をお釈迦さまにお祈りしています。
3月11日には一周忌になりますので心からご冥福をお祈りいたします。

(平成24年2月25日)

 

<佛教・夢・希望・感謝・慈悲・無常・発心>

 

深妙寺は、権現山に権現信仰(真言宗)の道場として平安時代に誕生し、犬房丸の伝承も語り継がれています。開基三位公池上弥次郎入道(常法院日遊上人)は鎌倉幕府の重臣で伊那春近領を治められました。

ネール蓮

ネール蓮  この蓮は、インドのネール首相が敗戦国日本に贈られたので「ネール蓮」といいます。当山の蓮池に本年咲いた写真です。例年は、あじさいより遅れて咲きますが本年は一緒に咲きました。
 日蓮さんは、女性に宛てられたお手紙で「蓮は清きもの、泥よりいでたり」といわれています。
 泥沼は此岸(しがん・このきし・凡夫の世界)彼岸(蓮の花の世界・仏の世界)を示し、茎を通して蓮の花の世界に至ることを成仏といいます。

(平成26年7月15日)

印度の旅

・祇 園 精 舎 の 鐘 

日本の仏教徒の寄進 副住職

  祇園精舎の鐘は日本の仏教徒が一致団結して建立されたものだそうです。副住職とともに、私も心を込めて「佛教が慈悲広大で流布すべし」と願ってつかせてもらいました。

「日本寺」という日本の仏教徒が浄財を出し合って建立されたお寺もお参りし「佛教の逆輸出」との思いもあり感動しました。ここは日本のいろいろの宗派の僧侶たちがおられ仏教の布教に精進されていました。とても、心が癒される思いがしました。

・霊鷲山

霊鷲山 舎利弗尊者

 平成25年2月、12日間かけてインドの仏跡参拝に行きました。十大仏跡のうち七大仏跡を参拝することが出来ました。法華経の十六章に出てくる「常在霊鷲山」(常に霊鷲山に在り)といわれるお山をお釈迦さまは愛され、ここで法華経などを説法されました。坊さんであるならば、「憧れのお山」です。感激しました。
 左の写真は、お釈迦様の十大弟子の「智慧第一」といわれた「舎利弗尊者の廟」です。もっと早い時期にお参りすれば私も「智慧」を戴けたかもしれません。ここにナーランダ大学という仏教の大学があり1万人の学生がいたそうです。

(平成25年4月15日)

                                 

当山のシンボル鐘楼堂と梵鐘

当山のシンボル 旧鐘
新鐘

 伊那地域の梵鐘は太平洋戦争が終わる直前に供出させられました。敗戦の為弾丸になることはなかったようですが戻ってきませんでした。
 戦後4年目に古くなった鐘楼堂を建て替え梵鐘も新しく、富山の老子製作所で鋳造されました。老子製作所は広島の「平和の鐘」も造られた有名な鋳造会社です。
 まだ食糧難の真っ最中に一致協力されて遺して下さった「鐘楼堂」は全く彫刻がありません。その余裕はなかったのです。しかし、この「鐘楼堂」に願う平和への思いと、深い信仰心に頭が下がります。当山の貴重な宝であります。
 戦後のこの地域の皆さまの心を癒し続けてきた梵鐘を機会がありましたら、撞いてみてください。
この事実は、深妙寺が続く限り後世に語り継いでいって欲しいと思います。それと、この鐘楼堂は修理はしても今のままの形は変えないで欲しいと願う一人です。

(平成23年12月8日)

                                           

新しい銅版屋根

銅版屋根  瓦屋根が傷んできたので平成21年、檀信徒の皆さまのお力で葺き替え工事が立派に完成いたしました。この不景気の中、ご寄付を賜り有難うございました。
 銅版屋根は瓦屋根の8分の1の重さだそうですので耐震対策にもなります。後世に残る浄業が積めて大変嬉しいです。今後も、お寺の諸施設を大切に護っていきたいと思います。何卒、宜しくお願い申し上げます。
 本堂銅版屋根葺き替え工事完成

(平成23年11月15日)

広供養舎利

広供養舎利  平成18年4月8日「ご仏舎利塔」の開眼供養を致しました。かつて、インドのネール首相に戴いた「ご仏舎利」をお分け戴き、当山の「ご仏舎利塔」に奉安致しました。佛教はやはり最後はお釈迦さまに帰一するのが筋道と信じています。
 法華経という経典の第16章には、「広供養舎利」と示され、お釈迦さまのお骨即ち「ご仏舎利」を供養することを勧めておられます。
 「葬式仏教」といって日本の伝統教団を揶揄されることがあります。これは、大きく考えなおさなければなりません。世界中どの民族も身近な人の死を悼み理想と思われる方法で葬式をして参りました。今は亡き方の「御霊よ安らかに」と祈る感情はどこまでも大切にしたいものです。そうした、営みが人格形成に不可欠と思います。
  

伊那市合併協議会主催

伊那市合併協議会主催  「人と歴史と文化を育む美しいまち」をテーマに、伊那市合併協議会の主催で150人ほどの皆様があじさい寺を見学されました。
 写真は深妙寺の縁起を説明しているところです。

(平成17年6月25日)

 

当山の節分会

小出太鼓「権現おろし」 小出太鼓「獅子舞」節分会
小出太鼓「権現おろし」 小出太鼓「獅子舞」節分会

身延山鐘楼と祖師堂

身延山鐘楼 祖師堂

 日蓮さまは烈しいご気性のお方でした。でも、涙もろい優しいお方でもありました。それは、女性や弟子へのお手紙で解ります。日蓮さまは、身延山から故郷の小湊を毎日拝しました。私は、歳をとるとともに身延のお山が好きになり参拝しています。

(平成17年2月)

木曽の森林鉄道

平成16年11月6日木曽路に行きました。
上松の森林鉄道の列車にも乗せて戴きました。
伊那にも森林鉄道のような夢の列車が欲しいと思いました。

鉄道 切符

愛犬について

ペットが大好きです。
ペルは器量はもう一歩です。
でも、絶対に吠えたりしません。
とても、お寺むきのワンちゃんです。
ワンちゃん

< 住 職 の 随 想 >

郷土の誇りの一人に「中村不折」という画家であり書家がおられます。夏目漱石や正岡子規とも交流があったすばらしい方です。「菱田春草」の才能を高く評価され彼を「東京美術学校」に後輩として迎えたのも中村不折です。
中村不折は驚いたことに仏教にも深い理解を示されています。法華経の如来寿量品の「我成仏已来。甚大久遠。寿命無量阿僧祇劫。常住不滅」「我れ成仏してよりこのかた、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫、常住にして滅せず。」という書作品を遺しておられるのです。
へたな坊さんより遥かに仏教に通じていたのです。お釈迦様は永遠不滅でそのお釈迦様を戴いていくのが仏教であり、仏教徒の信仰であるというのです。これは大乗仏教の根幹につながる思想といえます。
私も、ここにいうお釈迦さまをどこまでも戴く僧侶でありたいと願っています。

(平成23年5月26日)

頑張っておられる浄土真宗のお坊さん

「菩薩はおられるのでしょうか。おられないでしょうか。おられるのならどこにおられるのでしょうか。」これは、真宗の○○寺院さんが檀家さんの「女性の集い」でのレポートのテーマです。
この、○○寺院さんのホームページにたくさんの回答が掲載されていました。仏教婦人会のみなさまと同じ視線でどこまでも仏教を求めていかれる姿勢に感服いたしました。
宗教(仏教)が人間のものである以上いろいろの宗派があり考え方があって当然です。そのほうが健全な宗教の姿ではないでしょうか。仏教もいくつもの宗派に分かれて「切磋琢磨」されたから、それぞれの宗派に個性と特徴があり「日本の風土」にあった仏教として発展してきたとも言えると思います。
女性の集いをまとめていくことは、ものすごく難しいことでわたしは家内に任せて逃げています。この真宗のお寺さんはお檀家さんに本気で寄り添っておられて素晴らしいと思います。
わたしも、周りの皆さまの心に寄り添いながら「仏教の素晴らしさ」を再発見すべきであると反省いたしました。

(平成23年4月26日)

大地震起こってしまう

大地震が起こってしまいましたが、被災者の皆様、ぜひ、子どもたちの明るさに支えられて頑張って戴きたいと願っています。私の親戚も罹災してしまいました。
「地震には周期があって、今、地球は地震が頻繁に起こる時期に向かいつつあるのです。」というお話を聞いたことがあります。私は地震が起こるのは「たたりだ」といわれるとこまってしまいます。そういうことを全く信じていないからです。そして、どのような宗教をしていても天災は起こってしまうものではないでしょうか。
大自然の中に飲み込まれ、その手のひらのところで生活させて戴いているのが、人間だと思います。だから、大自然の大きな「エネルギー」に包まれていることに感謝し、そして、それを恐れ敬い謙虚に生きるしかないと思います。
そういう私も、我儘に科学文明の恩恵を戴くことを疑問にも思わず生活してきてしまいました。自らの生き方を問い直すべく懺悔したいと思っています。

(平成23年3月26日)

春季彼岸によせて

春期彼岸の法要も無事終了してほっとしています。当山では師父の代から各地区の世話人さまが塔婆を取りに来てくださる習慣があります。
よく、文句も言わずに仲間の塔婆を取りに来られて配って下さいます。こうした多忙な時代に本当に有り難いことです。
私たちのお宗旨では妙法蓮華経(法華経)という、聖徳太子さま以来、日本人に親しまれている経典を大切にしてきました。法華経の十六章は如来寿量品といい「久遠の本仏」ということが説かれています。歴史上のお釈迦さまを超えて永遠にまします不滅のお釈迦さまの存在を信じることを理想とします。このような考え方はものすごく夢が膨らんできて心が癒されます。
また、法華経の一章は序品と言いますがこの最初のほうに「到於彼岸」(とうおうひがん)というところがあります。慈悲のこころで身を修めれば彼岸の世界にすべての人がいかれるのです。
このようなお話を法要の後致しました。みなさん、我慢して聞いて下さいました。

(平成23年3月21日)

権兵衛峠開通とあじさい寺

  ついに念願の権兵衛トンネルが2月4日開通する。伊那・木曽間がなんと30分で往来が可能になります。
あじさい寺も観光資源の一つに加えて戴けそうです。
木曽側の「寝覚の床」「福島宿」「奈良井宿」などが、伊那側では「春日公園」「高遠公園」などとともに「あじさい寺(深妙寺)」が紹介されています。
この機会に、皆様に親しんで戴けるお寺としてさらに成長していくべき道を探りたいと思います。

新聞 地図

⑤があじさい寺

                                      (平成18年1月4日)


   ゆこゆこ信州・伊那のあじさい寺

 気まぐれなコーナーですみません。地道につみあげて行くことが苦手ですのでお許し下さい。
仏教には良いところが一杯あるのにそれを巧みに表現できないのが残念です。


 

長野日報 住職さんリレー随想「こころ」長野日報 掲載

「亡き人に学ぶ」 (最終回)

  「おばあさんは私が小さい頃からお小遣いをくれたりして可愛がって下さいました。よい坊さんになるよう励まし、見守って下さいました。・・・深く法華経のみ教えに帰依され、身延山にもよく詣でられました。これからは蓮池のほとり、お釈迦様のおそばで安らかな日々をお過ごし下さい。」
先だって、亡くなられたお檀家のおばあさんの葬儀での「お別れの言葉」の一部です。やはり僧侶にとっても人の死は悲しいものです。ましてや、子どものころから深くお付き合いをさせて戴き、お世話になったおばあさんです。「信心深いお方を亡くしてしまった」という思いが募り、寂しさがこみ上げて参ります。おばあさんどうか深妙寺の墓地で安らかにお眠り下さい。そして、おばあさんの恩に報いるため、坊さんとしての道を精進するつもりですので、これからも見守っていて下さい。
私は僧侶として、人の死に接することが多いのです。お釈迦さまは「生老病死」と背中合わせに生きているのが人間であるといわれました。人の死は必ず一回はやってきます。そして、それは悲しいことですが、亡き人への供養を通して私たちに新たな生き方を示唆してくれます。
この六月二十九日は母の命日で七回忌になります。この度法事の案内状を作りました。その文章の末尾に「母が挿し木をして育てた紫陽花も、満開になると思われますのでご覧戴ければ供養になると思います。」という一文を入れました。次の十三回忌は、ごく内輪でひっそりとやりたいと思っています。あまり丁寧にお呼びすると、来て下さるお方に負担になるのではないでしょうか。
母は明治四十年二月二十二日、寺の長女として誕生しました。七歳も下の妹とさらに下の弟がいました。そんな境遇もあって気が付く娘として成長したようです。母は年下の妹や弟の面倒をみるのが好きだったそうです。
この母の一生を大きく狂わせたのが太平洋戦争です。母の弟は「戦争はいやだけれど、最低の任務を果たすのだ」と言うことで幹部候補生を断って戦地に赴きました。グアム島であえなく戦死してしまったのです。こうして母は、僧侶である父と結婚し深妙寺を守っていくことになったのです。
母親にも、苦労ばかりかけ親孝行らしいことも出来ずに過ごしてきてしまいました。せめて七回忌は懇ろに供養をしたいと思っています。母の寺へ寄せる愛着いや執念は怖いほどのものでした。
私にとって母への最大の供養は、坊さんとして強い執念をもって深妙寺を守り抜いていくことにあると信じています。
そして、出来ましたら来年は、坊さんの卵で戦死してしまった母の弟の供養のため、グアム島を訪ねてみたいと考えています。

(平成16年5月19日)

「いい加減に生きる」

昔の教科書に、『授業中、男の子が手を挙げて「先生、つばめが来ました」といってそのことを知らせ、みんなで喜び合う』というような作品があったように記憶しています。この男の子は明らかに「よそ見」をしていたことになるし、授業は中断したはずです。でも、先生をはじめみんなで、ツバメが今年も来てくれたことを喜んでいるのです。何とものどかでうれしい授業風景が浮かんできます。
近年、「あじさい寺」も多くの方がお越し下さいます。近所の小学校三年生があじさいを見学に来てくれた時のことです。担任の先生が、蕎麦を一皿注文されました。私は、「けしからん先生だ。子どもの目を盗んで蕎麦を食べるつもりだな。」と思ってしまったのです。ところがそうではありません。親ツバメが子ツバメにえさをやるのに似ています。なんと、その蕎麦を三本位ずつ子どもに食べさせ始めたのです。男の子も女の子も順番が来ると、子ツバメのように大きな口を開けます。その口に蕎麦を先生が放り込みます。この先生の素晴らしい発想にすっかり感動してしまいました。蕎麦一皿もこんなに有効に分け合って食べることができるのです。このごろ、先生たちは長期休業も「自宅研修」が認められず、毎日出勤させられるそうです。
先生たちに「ゆとりの時間」を持って戴けることが「ゆとりある教育」に繋がると思います。先生たちの欠点を探すことが大好きな親も増えているようです。先生がたのご指導をどこまでも信じたいものです。ちょっと、はずれた先生もおられた方が職員構成の上でもバランスがとれ、子どもたちも安心できるはずです。 「お経が読めない、いい加減な坊さんだ。」という使い方があります。これは「駄目な坊さん」という意味です。「お風呂がいい加減だ。」というのは「湯加減がいい」という意味になります。この言い回しは「ほどよい状態」という使い方です。私たちはこの「ほどよい状態に生きる」つまり「いい加減に生きる」ことを忘れてしまっているのです。物に対する感謝の念を忘れ欲望は尽きません。学歴偏重の現実の中で、我が子には「オール5」を求めてしまいます。
仏教の「中道」(ちゅうどう)ということばは「いずれにも偏らないこと」を意味します。この中道は「いい加減」(ほどよい)に通じるところがあります。私の少年時代は、終戦直後の物不足の中でひもじい生活を体験しました。でも、あのころの方が「夢とぬくもりといい加減」があったように思います。
せめて、一日に一度は家族で「肩の力を抜いてくつろげる時間」を持つように心がけたいものです。そして、もっと「こだわらず、いい加減に、伸び伸びと」生活できる私たちでありたいと願っています。

(平成15年12月24日)

「お盆は日本人の心の行事」

夏は蝉・秋は鈴虫などの声を聞くのが私は大好きです。今の時期は、お寺の境内でも蝉が盛んに鳴いています。やはり蝉の鳴き声は風情があり心が洗われます。これからも、蝉の季節には境内で鳴き続けてほしいものです。



  蝉しぐれ

蝉しぐれの中
父の好きだったお酒と
母の好きだったお花を
うれしそうに
私の子どもたちが抱えて
前を歩いている
苦労ばかりかけ
何ひとつ子らしいこともせず
生きてきた日々をふりかえる

蝉しぐれの中
父の好きだったお酒と
母の好きだったお花を
私の子どもたちが抱えて
妻や私のほうをときおり
ふりむきながら
前を歩いている

もうすぐ「お盆」(盂蘭盆)がやって参ります。毎年、夏が来ると、この詩を思い出します。
この詩の情景を想像してみると「日本の夏・日本のお盆」と言った感じで豊かな気持ちになります。仏教の教えはともかく「父の好きだったお酒」をあげてやろうと言う発想が嬉しいです。「母の好きだったお花」などもあげたいものです。「苦労ばかりかけ 何ひとつ子らしいこともせず生きてきた日々をふりかえる」というのもジーンときます。私たちは少なからず「親不幸」の体験の持ち主ではないでしょうか。
お釈迦さまのみ教え、法華経十二章には「女人成仏」が説かれています。このお経を底抜けに信じた日蓮さまは、女性にも信仰の在り方を諭されるお手紙を積極的に書かれました。女性に宛てられたお手紙がたくさん残っていて国の重要文化財になっています。これは、鎌倉時代の開祖の中で日蓮さまだけであると言われています。
「妙一尼御前御返事」という女性へのお手紙の中で「人の寿命は無常なり。出る息(気)は入る息を待つことなし。定めなき習ひなり。されば先ず臨終のことを習ふて後に他事を習ふべし。」と言われました。人はいつ死を迎えるか分からない。やがて、死にゆく私たちであることを自覚することが大切です。死と背中合わせに生きている自らを見つめて「有意義な生き方」を仏教に見出していきたいものです。
日本人の生活の大きな節目でもある「お盆」の行事を通して「先祖供養」の大切さを考えてみたいものです。人間の道徳の根幹になるものの一つが「親を大事にする」ということだと思います。そして、それは「先祖崇拝・先祖供養」に通じていくのです。今は亡き父母や大先祖さまも確かにこの世で活躍されていたのです。目に見えないものに感謝できることも人間だけに与えられた特権であります。 子どもたちに、お盆の行事をはじめ、身内の方の臨終・お葬式・法事等に立ち会わせることが生きた勉強になると思います。そして、そうした機会が得られにくい時代になってきています。
しかし、こうした体験はそのまま「命の尊さを見つめ直す」ことになり「宗教の原点」いや「間の原点」にせまることになると思うのです。

(平成15年8月6日)

「仏 教 再 発 見」

もうすぐ「花祭り」(4月8日・釈尊降誕会・灌仏会(かんぶつえ))がやって参ります。 小学校3年生の女の子に「仏教を開いた人を知っている。」と尋ねると「お釈迦さまじゃん。」という答えが返ってきました。嬉しくなって「お釈迦さまはいつ生まれたの。」と聞くと「うーん・・・。」答えをもらえませんでした。イエス-キリストが誕生された12月25日は「クリスマス」で小さな子どもも知っています。クリスマスの華やかな行事が子どもの心を深くとらえているようです。
私のお寺でも、「花祭り」の行事を毎年しています。私が子どもの頃は近隣の子どもたちが、持参した瓶(びん)に甘茶を詰め、お団子をもらおうと行列ができました。この仏事(ぶつじ)(仏教の行事)は子ども心にも明るく映り、お釈迦さまって偉い人なのだろうと思いました。しかし、花祭りは今の子どもの心を揺さぶることが難しいようです。大人も子どもも、「仏教っていいな」と再発見してもらえるような、仏事にするための工夫と努力をしたいと思います。
  仏教を分かりにくくしている一つに多神教(唯一の信仰の対象を持たない)ということがあります。仏教の礼拝の対象は数百に及ぶと思われます。けれども、小さな子どもも、仏教を開いたのはお釈迦さまであることは知っています。もし、仏教を一神教にするとすればお釈迦さま(釈迦牟尼佛)を信仰の対象として統一するしかないと思われます。私たちは、この「久遠のお釈迦さま」に深い信仰を捧げたいものです。お釈迦さまのご生涯やみ教えを、さらに理解するため精進し、皆さまにお伝えできたら素晴らしいと思います。
ニューヨークテロ事件が引き金となり、イスラム圏とキリスト圏との戦いが再燃しています。アメリカ政府はイラクを攻撃してしまいました。アフガニスタンの侵攻に続いてイラクを攻撃し、また、罪のない民衆を殺戮(さつりく)してしまうことになります。アメリカがいかに、経済大国といえども全世界をコントロールすることなど不可能な筈です。日本政府は、第二次世界大戦の反省と日本の平和憲法をふまえ、アメリカに、「人命尊重」の立場から戦争を回避すべく忠告するくらいの迫力と良心を持ってほしのです。
イスラム教やキリスト教とは仏教は考え方が違うようです。仏教の「慈悲」とか「摂受(しょうじゅ)」(すべてを受け入れること)という言葉からも寛容を説いていることがわかります。また、仏教の原点は「合掌にある」といわれます。手を合わせることは「その対象を敬い感謝すること」になるのです。お仏壇に合掌してご先祖さまを敬うとともに、今あることを感謝し、あらゆる人に合掌してその人格を敬い、大自然に合掌してその恵みに感謝することを仏教は教えています。この発想は、すべてのものとあい和して「共存共栄」していくことになります。私たちは、この「仏教の包容力」を、もう一度日本人のものにしなければなりません。

(平成15年3月26日)

「即是道場 」

祖父は、もと首相であった石橋湛山のお父さんがお師匠様でした。山梨県の大きなお寺に幼くして弟子に加えて戴きました。ある晩、師匠が奥さんに、弟子たちへの接し方のことで大声をあげています。たまりかねた、兄弟子が「お師匠さまどうか奥さまを許してあげて下さい。」と言いました。師匠は「寝巻のまま来るものではない。もう寝なさい。」と言われます。兄弟子はすぐに立ち去って、僧衣をまとい再び師匠の前に正座して頭を下げ「お師匠さまどうか許してあげて下さい。」と言いました。さすがのお師匠さまもこれには参ってしまいその場がおさまったそうです。
ある日、この師匠が「留守中にこのお菓子を弟子たちに食べさせるように。」と奥さんに伝えて法事に出掛けられました。帰られた師匠が、まだ机の上にあるお菓子を見て「どうして弟子たちに食べさせなかったのか。」とせまります。奥さんは「ご前さまが帰られてから、みんなで食べたほうがよいと思いまして・・・。」との言葉を聞くなり、そのお菓子をこともあろうに池に全部なげ込んでしまったそうです。その時の、お師匠様の目には大粒の涙が光っていました。きっと、自分が幼くして親元を離れ寺にあがって、辛い修行の中でおやつなど戴いたころのことと重ね合わせておられたのです。この行為は、弟子たちに対する精一杯の思いやりだったのです。祖父がこの寺で僧侶の修行を続けられたのは、このお師匠様の頑固一徹ではあるが優しいお人柄と、奥さんの細かい気配りに支えられたからだそうです。その後、祖父は上田の蚕糸学校に学びました。かくして、僧侶として、また、当時盛んであった伊那谷の養蚕技術指導の先駆者としても頑張ったようです。
浄土真宗を開かれた親鸞さまには、「恵信尼」と言う奥さんがおられました。善鸞や覚信尼などの子どもも多くおられたようです。後に善鸞を破門しますが、末娘の覚信尼は親鸞さまと一緒に長く生活されました。親鸞さまが亡くなられると、御影堂(後の本願寺)を建立して父の供養をしました。親鸞さまはこの時代に、家族との生活の中で自己を磨き、子育てに人一倍苦労されたお方だと思います。こうした世俗に身を置いた生き方が、かえって魅力となって大きな教団に発展しま した。
お釈迦さまのみ教えに「即是道場」(そくぜどうじょう・即ち是れ道場なり)という言葉があります。生活しているこの娑婆はそのまま修行の道場であるというのです。現代風にいえば、家庭も職場も地域社会もそのすべてが修行の場であるというのです。しかるに、親鸞さまは鎌倉時代の開祖たちの中で大きく立場の違う「家庭」という修行の道場をも選びとられたことになります。
坊さんだけが修行を積んでいるわけではありません。また、仏道に携わるだけが修行でもないと思うのです。私たちが生活しているすべての場所が修行の道場なのです。私たち人間はみなこの道場で頑張って修行していることになるはずです。揺れ動く世相の中で、坊さんものんびりしておられません。修行期間の精進はさることながら、日々、世俗の中に身をおいて、すさみきった社会と心を浄化するための修行が積めれば素晴らしいと思っています。

(平成14年10月30日)

伊那市 深妙寺
長野県伊那市西春近小出3160
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