曽 我 物 語  工藤祐時犬房丸の伝説

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工藤祐経・祐時父子供養の寺

伊那春近領における犬房丸の伝説

犬房丸位牌

 源頼朝の家臣工藤祐経の子「幼名 犬房丸(工藤 祐時)」は伊那春近領に流罪になりました。犬房丸が流罪になる以前から工藤氏は小出(小井弖)に住み着いており、犬房丸はこの工藤氏の一族だから保護されました。犬房丸は当山が密教寺院であった時に帰依されます。後に、小出の地頭(地頭代ともいわれている)である工藤氏に援助を依頼され当山の本堂を再建されました。
 時の住持は、犬房丸の赦免を願って護摩を焚いて祈祷します。しかし、犬房丸は建保元年(1213)29歳で不遇の生涯を閉じたと伝えられております。
 犬房丸は「感應院殿唐木前但州大守深圓俊光大居士」(位牌は儒教を起源とし、位階を示すものであった。その考え方が伺える諡号が付けられている。)という戒名で、当山の大檀那として供養されてきました。先に住み着いた工藤氏一族は後に地名の小出(小井弖)氏を名乗りました。西春近村岡の当山檀越唐木氏のご先祖は、工藤氏の一族で犬房丸の養育指導に当たられました。犬房丸を含めこの一統は地名の唐木(とうのき)の唐木(棠木)氏を名乗ったといわれます。
 史学博士井原今朝男教授は「伊那春近領政所長官の池上氏・小出を治めた工藤(小井弖)氏・伊東氏(紋は庵に木瓜)などの関わりが犬房丸の伝承に繋がったのではないか」と言われています。( 市教育委員会発行「信濃の牧・春近領・宿場」参照 ) 犬房丸祐時に関する吾妻鏡の記載と伊那に伝わる内容に大きな違いがみられます。井原教授がいわれるように、政所の長官の池上氏を背景に勢力を伸ばした工藤(小井弖)氏などとの結びつきの中で犬房丸の伝説が形成され、当山で古くから供養されてきたものとも考えられます。

 右上の写真は当山に伝わる犬房丸の位牌です。平成13年夏、長野県立歴史博物館・名古屋大学年代測定総合研究センターのご助言・ご協力を戴き、放射性炭素年代測定を致しました。その結果600年程前の松材に紅殻で記された位牌であることがわかりました。日本で院殿号の戒名が最初につけられたのは足利尊氏(室町幕府初代将軍・1305~1358)ですから、尊氏以後に犬房丸の諡号が付けられました。(足利尊氏以前の武将で院殿号の戒名(法号)と位牌はすべて尊氏以後さかのぼって作られたものです)

 犬房丸の位牌(放射性炭素年代測定)から、当山と唐木氏一族との関わりは室町時代(檀家制度が江戸時代に成立する前の関係なので檀越という表現が適切と思われる)にすでにあったことが解ります。先に触れましたが、この諡号は唐木氏が工藤氏の一族であることを示していると言われています。
  このことに関する史実として、伊那市西春近山本726番地(常輪寺北側)に卵形をした「工藤氏の供養塔」(通称 犬房丸の墓)があります。供養塔には、唐木氏は工藤(藤原)氏の一族であるとして、正面にふたりの俗名(久堂介常 末 ・ 為 藤原祐綱)が2行に刻まれています。これは唐木氏のご先祖が、寛永8年(1631・江戸時代初期)9月に建設された古碑です。
(この古碑については下記の「犬房丸に関する史料参照」)

 この「工藤氏供養塔」や「曾我物」(そがもの)の普及が影響し、18世紀以後いわゆる「犬房丸伝説」(伊那温知集1740・伊奈郷村鑑1740年・新著聞集1749・狐島神社記1875・明治8年以後成立他)として多くの記録が作成されました。
 混乱を避ける願いから当山に伝わる犬房丸の内容を発表することが消極的になってしまいました。しかし、このままですと「唐木氏と犬房丸」「当山と犬房丸」の伝承が消滅してしまう憂いがあります。そこで、当山に伝わる内容など、今後積極的に発表させて戴きたいと考えています。
 私たちは、鎌倉時代の伊那春近領を舞台とした「犬房丸の悲話」を、今後も身近な伝承として語り継いでいきたいものです。また、史実として考察を深められるところは、この機会にはっきりさせることが大切だと思われます。

曽我物語・木版本 曽我物語図絵 板東彦三郎の祐経
曽我物語・木版本 曽我物語図絵 板東彦三郎の祐経

犬房丸父子の供養塔


  犬房丸父子供養塔

犬房丸父子のご冥福を祈って

 当山では「犬房丸の伝承」を顕彰する べく「犬房丸父子」の永代供養を発願致 しました。  「父子の供養塔」は父祐經と子犬房丸 の故郷である伊豆の伊東と父子が悲しい 別れをされた富士の裾野(音止の滝)を 向けて、建立されています。
 伊豆の伊東と音止の滝と感応山(当山) の3地点が直線上に位置することも、不 思議な縁であります。
 日本三大仇討ちの一つ「曾我物語」の 悲劇の父子が別れて800年後、御霊と なられて当山で再会されておられること と思います。
 皆さまもお寺にお越しの折りは、「父子 の悲しい別れ」を思い起こし、お参りし て下されば供養に繋がるものと信じます。

父子の戒名

靈峯院殿義諦瀑韻大居士尊靈  父  祐經公 
感應院殿深圓俊光大居士尊靈  子  祐時公

工藤氏の系図

系図 

                    系図の考察

上図(1)の妙一尼に宛てられた宗祖の書簡があり、その子(2)の日昭(六老僧第一位)は宗祖の弟子であります。(3)の工藤吉隆(小松原法難)は宗祖の大檀越であり、旅先にあっては護衛の役割を果たされました。かくして、本宗と工藤氏(藤原氏)とは、鎌倉時代から深い関わりがあることが理解できます。  工藤氏の系図については歴史家のお知恵を戴き、より史実に忠実な根拠を得たいと思いますので宜しくお願い致します。

犬房丸祐時の史料

木の下蔭 巻之下

 葛上紀流(安永8年・1779)著作 (蕗原拾葉 名著出版 中巻 298頁所収)
工藤氏俗名供養塔碑銘部分の転載(碑の所在地 伊那市西春近726番地・常輪寺北側)

碑銘 表

寛永八辛未年九月

久堂 介常  末

為  藤原 祐綱

同 裏

唐木 菅右衛門

是を建立

与しとのため

此セきとう立申候

蕗原拾葉原本

蕗原拾葉 唐木氏建立供養塔 木の下影
蕗原拾葉 唐木氏建立供養塔碑名 木の下影


(進徳図書 蕗原拾葉 36 高遠町図書館所蔵 高遠町進徳館旧所蔵)

工藤氏俗名供養塔碑銘の考察

 この碑は、唐木氏(西春近小出村岡・屋号 古屋敷・家紋 丸に橘)が「工藤氏の末流で具体的には藤原(工藤)祐綱氏をご先祖と仰ぐ」ことを示しています。江戸時代初期(寛永8年=1631年・9月)に唐木菅右衛門氏が、直接の大先祖と仰ぐ「藤原祐綱氏・俗名の供養塔」を建立されました。碑の正面の「末」と「為」という2字に着目する必要があります。「末は末流・為は為書」の意味であることが読み取れます。
 現在は残念なことに風化が著しく進んでしまいました。しかし、碑文の正面や裏面等の一部を読解でき「木の下蔭」の碑銘の内容と同じであることがわかります。
 葛上紀流氏が「木の下蔭」を書かれた安永8年(1779)は碑が建立されて148年後でした。よって、全文が読める状態にあり記録として今日に伝わりました。
 かくして、唐木氏のご先祖である菅右衛門氏は江戸時代初期に祖先の根源(ルーツ)を示す「俗名の供養塔」を建立されました。     

工藤氏俗名供養塔・犬房丸遺品の椀

 「工藤氏俗名供養塔」の写真(下左)は通称「犬房丸の墓」と言われているものです。碑の正面右上に久堂(工藤)と刻まれているのが読み取れます。江戸時代寛永8年9月に唐木氏の大先祖である唐木菅右衛門氏により建立されたものです。石碑は建立当時の形のまま伝えられています。この事実から、唐木氏一族は江戸時代初期にはすでに、小出の広い地域の支配者であり経済的な基盤があったものと想像されます。この「工藤氏俗名供養塔」は唐木氏の領地の山際に建立され、以来子々孫々にわたり、供養と管理がなされて参りました。
さらに、明治4年 唐木 伊右衛門 氏により、「工藤氏俗名供養塔の台座」の改修工事が完成されました。(この部分の材質が新しいことが確認できます)  また、「犬房丸遺品の椀」(小出郷倉所蔵)の写真(下右)は、犬房丸が使用されたとされる膳・椀・皿などで唐木家に代々伝えられていました。これは明治末年頃、唐木 庄治 氏が「多くの皆様に見学して戴きたい」との願いで、小出郷倉(現宝蔵庫)に寄付されたものです。これらの品は、唐木氏の家紋である丸に橘の紋が入った方形の布に包んで保管されてきました。

工藤氏俗名供養塔

    
小出郷蔵所蔵の腕
工藤氏俗名供養塔 唐木氏家紋

伊那の犬房丸関係史料等成立年表

当山犬房丸位牌→
工藤氏俗名供養塔 →  
犬房丸伝説著作 →   狐島神社記録
松材にベニガラ
で記された院殿
号の位牌で14
00年頃作られ
ました。
常輪寺の北側に
有り、唐木菅右
衛門氏により、
1631年建立
された。
伊那温知集・新
著聞集等の犬
房丸伝説が、
1740年代に成
立しました。
狐島神社の犬
房丸伝説が、
1875(明治8年)
成立しました。




  犬房丸関連文書等の保管場所移動の念書


 

「犬房丸関連文書等保管に関する念書」(上記念書の全文・宝蔵庫保管)

               

          念 書 の 全 文

 

  かねてより当寺檀徒の要望していた犬房丸様の遺品全部拾壹点が今日(昭和五十五年

  一月二十一日)小出耕地聯合代表五十四年大総代宮下勝美殿五十五年大総代黒河内英

  一殿によって今後は常輪寺に保管すべく引渡されました

  依って当寺責任者は目録に從い謹んでこれを御受けし今後共取扱に留意し紛出や毀損

  のない様細心配意保管に当る所存であります此処に左記品目継承と所信表明のため責

  任者共に署名捺印し、誓約念書といたします

 

  一、犬房丸使用 膳 椀

  一、仝     茶碗(箱入)

  一、阿嶋公様より拝領 茶碗(箱入)

  一、巻物 当寺縁起(箱入) 

  一、巻物 内容 (箱入)

    1、工藤家系図     2、鎌倉幕府下知状   3、小井弖先祖書並系図 

       4、小井弖能綱讓状    5、小井弖能綱讓状   6、鎌倉幕府下文    

       7、小井弖兄弟所領相論裁許状          

          昭和五十五年一月二十一日

                   常輪寺 廿一世      佛海 天宗 印

                   常輪寺 大総代 会長   三沢 義一 印

  小出連合会

    大総代(五十四年)  宮 下 勝美 殿 

    大総代(五十五年)  黒河内 英一 殿 

                                   以上

  犬房丸関係参考文献

1、 伊那の中世伝説・山岳信仰  伊那市教育委員会発行の「犬房丸伝説」の項に、「木の
  下蔭」などの史料が掲載されています。(平成14年11月8日頒布・1500円)

2、伊那市史  現代編 第6章 民俗・歴史 第三編 中世 第1章 鎌倉時代の工藤氏の
  動向を含め詳しく載っています。

3、蕗原拾葉  名著出版 中巻 木の下蔭 全文が掲載されています。なお、蕗原拾葉の
  原本は高遠町の図書館に所蔵されています。

4、信濃史料  第4巻 小井弖工藤文書 諏訪市の矢島氏所蔵のもので、犬房丸が流罪
  になる前後の伊那春近領の動向が理解できます。

5、上伊那郡史 上伊那郡教育会 大正10年刊 第二篇 第6章 鎌倉時代の「曾我兄弟
  復讐と犬房丸」として掲載されています。

  ゆこゆこ信州・伊那のあじさい寺・深妙寺

曽我物語で知られている曾我兄弟の仇討ちは「日本の三大仇討」として有名です。工藤祐経は、
「音止ノ滝」で曽我兄弟に討たれてしまいます。
その子犬房丸は,鉄扇で曽我五郎の顔をを討ってしまいます。その罪で伊那に流罪になったと
伝えられています。
流罪になったと伝えられている地は工藤氏の所領のあったところです。この伝説を当山でも後
世に伝えていきたいと思います。

伊那市 深妙寺
長野県伊那市西春近小出3160
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