私はこの3月末をもって、長年の職場であった上伊那農協を定年退職しました。花き課在籍中は、花き部会の生産者の皆様をはじめ業界の多くの方々、また職場の皆様にも大変お世話になりました。この場をお借りして御礼申し上げます。ありがとうございました。
さて、これからの個人的な人生の行方ですが、妻が築いてくれた花作りの後継者を目指そうと思っています。20年前の話になりますが、私たち夫婦に3人目の子供が出来たとき、妻はそれまで勤めていた会社を辞め、育児に専念することになりました。そのとき在宅でも出来る仕事ということで、それまでも小規模ながらやっていた花栽培を拡大し妻はその専従者として働き、今日まで家計を支えて来ました。当初は私もそれなりの手伝いも出来たのですが、この10年ぐらいは本業の勤めが精一杯で、花の管理と出荷は妻とその姉の二人にほとんどすべてを任せてきました。深夜に酔って帰宅すると、作業場に明かりが灯り選花機の音が聞こえてくることなどもしばしばで、内心では無理をさせているなあ感じて来ました。その意味で私の定年を一番待望していたのはほかならぬ妻であったと思います。
最後の勤めを終え帰った晩、家族だけのささやかなお祝いの席が用意してありました。この日のプレゼントに家族一同よりいただいたジョニクロ12年1リットル瓶の栓をぬき乾杯。至福のひと時でした。その直後です、妻の口から出た言葉に私は我に返りました。
「明日からやっと家事に専念できる。後は全てあなたにバトンタッチするからお願いね。」
私が妻のお手伝いをと考えていたのに、冗談とも脅迫ともとれるその言葉に対し、私の唯一の防御手段は失業保険の給付を受ける半年は表だっては働けないというものでした。ということで半年間はとりあえず妻の支援を取り付けました。その間私は見習い人ということで、妻の技術とコツを身に付けることに専念することになりました。むろん無給です。
翌日、心身ともに自由の身になった私は、モーニングコーヒーを飲みながら朝刊にくまなく目を通しておりました。勤め時代の習慣です。その時です、妻のかん高い声が響きました。
「なによ朝から新聞なんかゆっくり読んで。勤め人じゃあないんだから、新聞は夜読めばいいのよ。そんな余裕があったらハウスへ行って花の一本でも切ってよ。」
見習い人としてはその言葉に従うしかありませんでしたが、それにしても、新聞は夜読めには何となく納得しました。一日中花との付き合いでは、時事も話題も必要ありませんから、半日程度の情報の遅れは仕事には影響ありません。
さっそくハウスへ行き何年ぶりかの花の採花をしながら、勤め人から開放されたゆっくり流れる時間を楽しんでいました。隣の畦よりまた妻の声が聞こえます。
「体の動きがまだ百姓になりきってないよ。そのペースでは今日中に仕事は終わらないんじゃない。今日は晩酌なしね。」
城下町の非農家から嫁いで来た妻に、13代目の正真正銘の百姓の血を受け継ぐ私が言われる筋合いはないと思いましたが、見習い人としては今はただ従うしかありません。
ところで話は変わりますが、今は亡き郷土の教育家でもあり書家でもあった北原青雲という方の自宅へ生前に伺った折、帰りに色紙を頂きました。何種類かの言葉が揮毫(きごう)されたものから好きなのを選びなさいと言われ、私は迷わず「一輪の花に感動」の一枚を選びました。人生で大きな苦難に遭遇したとき、野に咲いていた一輪の野草に勇気を与えられたというのが、先生の語ったこの言葉の意味だったように記憶しております。
私は花栽培を生活していくための生業として選びましたが、最終目的は花を媒体にして消費者の皆さんに新鮮な感動や癒しをお届けすることだと思います。そんな花作りを目標に夫婦(まだ妻の了解はいただいておりませんが)で頑張っていきたいと思います。
文: 赤羽今男(JA上伊那生産者・元JA上伊那花き課課長)
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