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親がゲームを与えている<2005.12.30> 年の瀬です。今年1年、信じられない事件・事故が多く、住みにくい世の中になりつつあることを感じないわけにはいかない1年でした。子どもを取り巻く環境の悪さ、社会を作っている大人の非常識さが目立ち、あっちにもこっちにもほころびができてしまったようです。 さて、年末はクリスマスやお年玉と、子どももプレゼントをもらう機会が増えます。予想していたとはいえ、クリスマスの翌週は、息子が「友達はみんな、ゲームやゲームソフトをプレゼントにもらった」と不満ブーブーでした。息子の願いも「ゲームがほしい」だったにもかかわらず、「プレゼントはサンタや親があげたいものがくる」と言い切り、ゲーム機はなしにしたのです。(そうはいっても、すでに携帯ゲーム機は持っています。) ゲームだけが弊害とはいいません。でも、ゲームをしている子は、確実にゲーム以外のことをする時間が減っているはず。「おもちゃに飽きたから本でも読もう」とか「外で遊ぼう」とか「退屈だから絵でも描こう」といった隙間を埋める時間の使い方を身につけて育たないと思うのです。ゲームは子どものすべての時間をなんとなく埋めてしまいます。そこには「何かしよう」と考える余地がありません。時間があったらゲームをしているのですから。こんなふうに育った子どもたちがつくる社会に、未来があるのか、親としてものすごい不安を感じます。 でも、わが子にゲームを買い与えないからといって、自分の子だけまともに育つとはもちろん思えません。自宅になければ友達の家でゲームをするし、もう少し学年があがれば、お年玉で自分で購入してしまうでしょう。でも、それでも、親が子どもに強制できるうちは、ゲームを簡単には与えてほしくありません。また、あるにしても、時間を決めてゲームをさせてほしいのです。でも、子どもに聞く限り、無防備にゲームをさせている家の、なんと多いことか。どうして危機感を感じていないのが不思議なくらいです。 クリスマス前、息子とほしいおもちゃの話をしていたら「(ゲーム以外で)友達と一緒に遊べるものがいいなあ」とつぶやいていました。最後にはゲームがほしいだったものの、一瞬でも他の遊び道具を考えようとした子どもに、ほんの少し安心しました。ゲームを与えないということは、それだけ親も子どもと話したり、子どもの相手をする時間が増えるはず。それは時には忙しい親にとっては大変なことだけれど、ものすごく大切なこと。自分にもそう言い聞かせています。きっと来年は、今年よりも強い、子どもの要望(ゲームをしたい欲求)に立ち向かわなければなりません。親のつとめと頑張らなくては。 皆様、よいお年を。<encha> |
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コンサートとは何か<2005.11.27> 機会があって、2回コンサートに行きました。ひとつはオペラ(テノール)歌手の佐野成宏さんのソロリサイタル。オペラには全く縁がないので、歌の意味や背景は、必死でパンフレットを読み、雰囲気を感じるのみ。それでも、若手テノール歌手で期待されているとおり、歌声は本当におなかに響くすばらしいものでした。佐野成宏ファンクラブ しかしながら、こういう方のリサイタルはしゃべらないのが一般的とか。歌を3曲うたうと休憩にソデにひっこみ、また出てきては歌うというスタイル。クラッシック界では当たり前なのかもしれませんが、慣れていない自分には違和感のある時間でした。 さて、もうひとつは、三四六 さんのコンサート。東京FMからFM長野のラジオパーソナリティに移り、長野県のリスナーには大変な人気の方。DJという職業柄か、3時間のコンサートの中で、歌もたっぷりでしたが、しゃべりもたっぷり。本人いわく、「1時間半はしゃべり」とのこと。ご本人は疲れるでしょうが、観客はラジオを聴いているようで、ある意味あきることなくコンサート時間を過ごせました。全く興味がなく会場に来た“こまちゅ”も、「楽しかった」ということで、歌を聴きなれていない観客でもOKだった模様。 たまたま形態の違うコンサートを聴いてみて、それぞれの良さや聴く者の姿勢について考えさせられました。前者は予備知識がないと恐らくその歌の本質は享受できないものです。では、だからといって知らない人には意味がないかというと、そうではなく、歌手本人の力量によって伝わるものがあると思われます。後者はエンターテイメント性。歌手本人の表現したいこと、プラス、聴衆を楽しませることに徹した構成です。さらに観客もコンサートの重要な構成員であり、盛り上がるには観客の協力も必要です。 どちらがいいとか比べることに意味はありません。観客である私は、そうした歌手の言葉や曲、会場全体からエネルギーをもらい、五感に新しい風を感じられて幸せでした。コンサートとはプロフェッショナルな人々に会える場であること、非日常的なハレの場であることがいいのかもしれません。<encha> |
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EPOさんと選挙<2005.9.16> 先日、ものすごく久しぶりにコンサートに行ってきました。コンサートといっても、ギャラリー付の喫茶店での「EPOプライベートライブ」で、EPOさんと、秋元カヲル氏、宮川雅彦氏が参加したもの。一部はEPOの歌中心、2部は3人による「朗読×音楽×演劇の新たなパフォーマンス」という構成でした。EPOの歌は1990年前後によく聞いていて懐かしさで行ったのですが、相変わらずよく通る声と、その独特の雰囲気のある曲に、うれしい時間でした。2部のパフォーマンスは、少し意外なもの。曲を聴きにきた者としては物足りないような気がし、でも、なかなかこういう演劇っぽいものは観る機会がないので、得をしたような不思議に気分でした。朗読された詩は、EPOさんのものもあれば、宮沢賢治、金子みすゞなど名作もあり、感覚をとぎすましてその世界に浸れるもの。EPOさんにしては、実験的なものかもしれません。 静かな木立のなかの喫茶店で、静かに曲を聴きたいところだったのに、ちょうどその日は選挙の投票日。いいところで「ただ今の投票率は○%」などとアナウンスが入り、舞台には大変迷惑でした。選挙は自民党の圧勝ということで、何年か後の歴史的1日となるのでしょうか?そんな日にコンサートを聞いていた自分を忘れないかもしれません。 今回お話を聞くと、EPOさんは人生についていろいろ考える時期があり、今ようやく自分が納得できる活動をしているとか。もともとEPOさんの詩には共感したり、ステキだなと感じていたので、やはり人生観がいろいろ出ている作品はすばらしかったです。 CD「TRAVESSIA EPO's BEST」のアルバムを購入してきました。帰宅後我が家を探すと、2本のカセットテープが出てきましたが、今はカセットテープを聴くデッキがないのです。音楽は不滅でも、ツールはどんどん変化しています。そのうちネット配信ばかりになりCDも聴けなくなるかも。歌は記憶だと思うのですが、記憶を呼び覚ましてくれる歌を流す機器の変化に自分がついていかれるか、選挙とともにちょっと不安な未来です。 EPOさんHP <encha> |
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ピアノ、そろばん、英会話<2005.7.14> 「習い事」は強制されても身につかないものです。娘は保育園の年長から(本人がやるというので)ピアノ教室へ通ったものの、1年もたたない2月ごろ「いやだ〜」と泣いて行かず、小学校入学もあって慌しいから少し休もうと「休学」。それでもお友だちも通っていることもあり、1年生になって6月より再開しました。が、「ピアノはきら〜い」と言ってはばからず、家では練習をする気配はありません。 自分はどうだったかといえば、小学校時代は「そろばん教室」へ通っていました。姉が通っていたのでつられて、と動機はありがちなもの。「さぼりたい」と思ったこともあったけれど、「検定試験」で級を取りたいと結構練習もしました。 「いやだ」というものを無理にさせて、一生嫌いになったら困るとか、「いやだ」といったからといって、すぐそのとおり「やめていい」といったら、苦からすぐ逃げる大人になりそう、など、親として対応に苦慮するところです。 前例の長男は「いやだ」という英会話教室を、結構強引に3年間続けさせました。引越しと共に習い事から開放された息子いわく、「やった〜」。そして、現在、習ったことはほとんど身についていません。う〜ん。あの3年間の「行かせるための労力」と月謝代は何になったのか、考えるとむなしいものがあります。 はたして娘のピアノは身につくかどうか。「ピアノ教室がきらいだった」という同世代の友人の言葉を聞きながらも、「自分は習いたかった」という親の果たせなかった願いもからまり、子どもへの「習い事強要」生活が続くのです。<encha> |
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モリゾーとキッコロ(愛・地球博)<2005.6.10> 5月に愛知万博へ家族で行ってきました。小学校が振替休日になった平日。シャトルバス発着の駐車場へは運行開始の8時前に到着したものの、当日予約を取ろうとした日立館へ着いたのが10:00近く。「もう予約券はありません。お並びいただくと4時間待ちです。」と言われ、結局あきらめました。それでも、冷凍マンモス、世界最大・藤井フミヤプロデュースの万華鏡、各社開発の未来ロボットとそのデモンストレーションなどを見学。子どもたちは無料遊びのゾーンや有料遊園地などで遊び「たのしかった〜。もう一回来たい。」と満足そうでなによりでした。 「万博」なのだから、世界の展示をみてまわらないと、という“こまちゅ”でしたが、各国の館も40分待ちなど入館に行列。結局展示はさておき、食べ物でお国柄を楽しもうと、「やしのみジュース」(南アフリカ館)「実演つきトルコアイス」「ベトナムのフォー」「(名古屋)味噌ソフトクリーム」などを飲食するとすでに夕方。丸一日歩き回り、疲れたというのに「サツキとメイの家」(見学は完全事前予約のみ)周回コースまで歩き、外側から見学することに。万博会場は大変広く、企業パピリオン・グローバル地区はとても賑やかですが、サツキとメイの家付近は日本庭園を再現した自然ゾーン。池にはコイが泳いでいて、ホッと一息。子どもたちも水辺で遊んで息抜きが出来たようでした。「環境博」の意味や万博開催にあたってのオオタカ生息地区保存などの経緯を考えるなら、ここや瀬戸会場に足を運ぶべきとも思えました。 さて、万博マスコットの「モリゾーとキッコロ」、モリゾーは森の精のおじいさんでキッコロは子どもの精だそうです。園内でもっと会えるかと思ったら、出会いは1度だけ。でも1日中、万博でこのマークをみているうちに愛着がわいてきてかわいい。会場でも、疲れた体に安らぎを与えてくれたのはやはり自然。モリゾーとキッコロ、トトロみたいな自然の精も楽しく暮らせる環境が、子どもの未来まで続くようにと、願わずにはいられません。 <encha> |
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おさがり、お古、使いまわし<2005.4.10> 娘が小学校に入学しました。3月、4月は卒園・入学で慌しく過ぎていきます。入学にあたって、学用品をいろいろ揃えることになり、3月に注文しました。任意注文のもので、「粘土板は去年転園してきたときに買ったものがあるし、クレパスも保育園で使っていたものがまだ、半分も減っていない。」と使いまわそうと判断。しかし、入学後、学校から帰ってきた娘いわく「なんで、私だけ粘土板が違うの!みんなと同じがいい!」と泣きながら訴え、クレパスも、箱が壊れているからイヤと拒否。充分、機能は果たせるのにと思いながらも、しぶしぶ追加注文。(学校の先生、二度手間かけてすみません。) 自分の子ども時代を振り返り、どうだったかと思うと、姉がいたので、結構おさがりが多かった気がします。くつはサイズがいつも大きめだったし、通っていたそろばん塾に持っていったそろばんも、姉の名前が刻まれていた。嫌と言えば嫌だったにも関わらず、「新しいものを買って」と言っても親は買い与えることはしないで済ませたということ。特別貧乏な家ではなかったことを思うと、当時は「これ以上言ってもむり」と子ども心にあきらめていたと思うのです。 で、我が娘を考えると、「嫌なものは嫌」と言い続けることで、親である自分は結局買い与えてしまうのです。時代の空気も違うのか、それとも親が甘いのか。物がもったいなくて捨てられないので、家には使いかけの学用品が、どんどんたまっていくのでした。 粘土板の注文を出した後、娘に「本当に粘土板、一人だけ違っていた?」と聞くと、ニヤニヤしながら「本当は、もう一人いたよ」と白状。今どきの子どもの方が、自分の子どもの頃より一枚上手ということでしょうか? <encha> |
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越県合併と信濃の国<2005.2.15> 平成の大合併と言われている市町村合併が各地で行われています。居住地長野県は、46年ぶりに岐阜県と越県で村が合併するとのこと。そうなると、もちろん正確に覚えているわけではないけれど、自分が習った長野県地図と、子どもが習う長野県地図は変わるんだなあと、しみじみ考えてみました。「社会」の勉強のうち、歴史分野は、自分が習ったときより現代史が長くなるわけで、「イラク戦争」や「同時多発テロ」なども歴史的意味が決まって、覚える対象になるのでしょうか。古代史も新しい発掘があると人類の歴史や文明の価値が変わります。教科書に書いてあることが絶対的に真実でないという事実に、大人になって気がついた思いです。 さて、長野県には「信濃の国」という県歌があります。小学校で習うためか、長野県人ならほとんどの人が歌えるという、県外の人にはなぞの歌。越県合併のニュースの中で、岐阜県に県歌があるかというレポートをしていました。結論は、あるけれどほとんどの県民が歌えないらしいです。なぜ、「信濃の国」は長野県民に浸透しいているのか、不思議な気もしますが、実感として「信濃の国」を覚えていると、長野県に愛着が湧きます。 小学3年生で転校してきた息子は、「信濃の国」を覚える機会がなく、約1年たっても唄えない様子。無自覚のうちに1年生で習ってしまうのと違い、「なんでその歌を覚えないといけないの」というぐらいの意識になっており、このまま成人してしまうかもしれません。自分が年をとったからなのか、愛県心が強いわけではないのですが、長野県で大きくなる子どもには、やはり「信濃の国」を覚えてほしい気がしています。不思議な思いです。 信濃の国 歌詞・楽譜はこちら <encha> |