わがままコラム 個人的ひとことコーナー 一覧表に戻る

21世紀の夜明けは近い<2000.12.29>

 20世紀も最後ですね。日本には年号と世紀と両方の表記があり、時代を語る場合はなんとなく年号の方がイメージが沸きやすいのですが、やはり、20世紀の終わりともなると、メディアはこの100年を総括してあれこれ語っていますよね。でも、100年間の総括では、自分にとっては歴史の復習のよう。まだ、「激動の昭和史」といわれる方がピンときます。戦前、戦時中と自分が生きてきた昭和との違いの大きさは、想像がつきます。明治生まれで平成に亡くなった祖父母が今も生きていたら、なんと感想をもらすのか、ぜひ聞いてみたいものです。
 さて、21世紀と聞くといつも私の頭の中には、子どもの頃、夏の盆踊り大会で聴いた「東京音頭?」なる音楽のフレーズが流れます。「♪21世紀の夜明けは近い〜♪」しか覚えていないのですが、ご存知でしょうか?(曲名が違っていたらすみません。)「木曽ぶし」や「炭鉱ぶし」が流れる中、アップテンポのこの曲が流れると、子ども心に「21世紀って明るいんだ」という印象を持ちました。
 今の10代や20代の人が、将来に夢を描けないとか、若いうちから「老後が心配」といっているのを聞くと、何だか、寂しくなります。この先、鉄腕アトムのようなロボットが誕生する可能性が高いし、ドラえもんのポケットみたいな異次元空間も可能かもしれない。まあ、そこまで夢を見なくても、子どもたちが「早く大きくなりたい。」「大きくなったら、あんなことも、こんなこともしてみたい。」と希望が膨らむ社会になってほしいです。「ほしい」じゃなくて「していく責任がすべての大人にある」はずです。
 先日新聞のコラムに「社会が幸せでないと、自分の子どもも幸せになれない」という記述があって、その通りだなと思いました。自分の親も、そのまた親も子どもの成長を見守りながら、必死で生きてきて、その思いが子どもに、またその子どもに伝わっていく。一人一人の力は小さいけれど、願いが大きくなって希望に満ちた未来になりますように。皆様 良いお年をお迎えください。<encha>


唱え文句<2000.12.23>

 今年、パソコンを始めた人はどのくらいいるのでしょうか。国をあげて「IT。IT(情報技術)。」と叫ぶせいか「パソコンをしなくちゃ」という強迫観念(?)みたいなものが蔓延している気がします。自分がパソコンを便利に使っているので、パソコンを覚えようという人が増えることはいいことだと思うのですが、なんだかせかされているようです。もう一つが、小学校の英語教育の導入。子どもがいるせいか突然電話がかかってきて「英語の教材のお試し版をお送りします。来年から小学校で英語授業が始まるので、必要ですよ。」という、殺し文句を聞かされるのに、うんざりです。
 パソコンも英語も、これからの時代必要になるのは確実だと思います。昔の「書き方、そろばん」の現代版とも言われています。自分も子どもも、困らない程度には覚えていきたいという欲求があります。でも、イメージが先走りして、そのイメージに踊らされるのは不本意という気がしませんか。
 また現在は、パソコンを持っている人だけがその恩恵に預かれるしくみですが、本当に社会のためにパソコンを広めるなら、公衆電話のように、又はコンビニのFAX機のように、誰でも小額の利用料を払えば使えるような場所が必要です。図書館で本を閲覧できるように、行けば使える公共施設もほしいです。一部の企業がこうしたサービスを展開していますが、都市部に限られています。
 IT分野の成長が景気を支えているといわれているので、パソコン人口が増えるのは歓迎ですが、国をあげての唱え文句の合唱ではなく、IT化が今必要な分野、例えば障害者の情報ツールとしてのパソコンや、災害時の情報ツールとしてのパソコンなどの拡充や整備をしてほしいです。
 いろいろ書きましたが、21世紀は、人として親として、溢れる情報を取捨選択する目を養って、様々な現象をみていきたいです。<encha>


運転に油断は禁物<2000.11.1>

 先々日、車のバンパーをぶつけてしまいました。ほんのちょっと縁石にぶつけただけと思い、「あっ!ぶつかった」と感じた後、そのままバックしたのですが、なんと、縁石の角にタイヤの泥除けカバーが引っかかていたようで、ベリベリと割れてしまったのです。後から考えれば、ベリベリ音がした時点で、車を止めればいいものを、何が起こっているのか確認もせず、更にバックをして、縁石から離れました。その結果、泥除けカバーは全滅。バンパーの左側が外れ、更に前方についていたリモコンポールの接続個所まで壊してしまいました(T_T)。
 知り合いに見てもらうと、「これは絶対、修理しないと。」とのこと。「ふぇ〜ん」と思いながら、車やさんに連絡して修理してもらうことに。
 さて、この事実を“こまちゅ”にどう説明しよう。日頃、“こまちゅ”の失敗に対して冷たい視線を送っている手前、なんと言われることか。そうそう、こんなときこそ、メール。顔も見ず、声も聞かずに相手にメッセージを送れるのはありがたい。事実をメールしたその日、“こまちゅ”帰宅後の第一声。「まあ、バンパーは消耗品だからな。」おーやさしいお言葉。でも続きがありました。「だいたい、なんであんな近いところに車で行くんだ。歩けよ〜。」「はい」「俺がぶつけていたら、ずーと文句言われるんだよな〜。」今度から、人の失敗にも寛容になります。はい。<encha>


「そうだ、村上さんに聞いてみよう」<2000.9.9>

 今年の8月に朝日新聞社から出版された『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」』という村上春樹氏の本はご存知でしょうか?以前このHPのリンクのコーナーでも紹介していた「村上朝日堂」というホームページに寄せられた読者からのメールに、村上氏本人が答えたものをムック本にしたものです。何を隠そう村上春樹の大ファンなので、ちょっとした疑問をメールで送ったところ、ちゃんと、返事が返ってきて感激していました。「うわぁ!本当に村上さんからのメールだぁ」とぴょんぴょん飛び跳ねたい気分だったのです。(メールなので、「直筆」の手紙というわけにはいきませんが。)
 そして、この本。膨大なメールの中から、282個選ばれているのですが、なんと、私が送ったメールが掲載されているではありませんか?そうとは知らずに読み進めて「大疑問223 村上作品の文庫に解説がないのはどうして?」の見出しを見つけたときは、メールをもらったときと同じくぴょんぴょん気分でした。
 他のメールに比べて面白みがない、まじめな内容なので、私以外の人はサラっと読み流してしまいそうです。でも、これで、メールが来たときに「本当に村上春樹が送っているのか?」と冷たい一言&疑いのまなざしを向けた“こまちゅ”に、また一つ自慢ができたのでした。
 この本は村上さんの作品に対する疑問から、趣味や恋愛論まで幅が広いので、村上春樹氏の小説が苦手な人でも、楽しめると思います。私は『大疑問161 「小確幸」って辞書にものっていません』のような、村上さんの喩え話が大好きです。<encha>


リンク<2000.7.12>

 先日、見知らぬ方からメールがあり「自分のハワイに関連するホームページにリンクさせてほしい」との申し出がありました。ホームページをみるとハワイに関するあらゆる情報を載せていて、関連ホームページが“だーっ”と一覧になっていました。当ホームページに「ホノルルマラソン日記」があるのでお声がかかったようです。
 「リンク」とは、一つのホームページから別のホームページに行ける便利な機能。一つのテーマに関連するものが集まっていると、簡単にHPをのぞけて、そこでテーマはもちろん、別の思わぬ発見をすることもあり楽しいものです。例えば、ハワイの情報を集めていて、たまたまこのHPを見てくれた人が絵本のコーナーにも興味を持ってくれる、なんていうことがあるかもしれません。ネットサーフィン(波乗り)と呼ばれるように、波に乗ってユラユラ異国の地(他ジャンル)へ行けるのもインターネットの醍醐味ですね。
 ところで、「ホノルルマラソン日記」は絵本のページ以上に「おもしろかった」との感想を頂いていますが、その後のTは、全く走っておりません。例え20周年記念の休暇で再度ホノルルへ行けたとしても、前回以上の成績をおさめることは不可能とみています。本当は「継続は力なり」で、あのイベントをきっかけに「走りこんで引き締まった体型」をめざしてほしかったのですが・・・。この日記は、「猿岩石日記」とともに記憶の彼方に消えつつあるようです。<encha>
 リンクしてくれているHPこちら→(AlohaBook) http://page.to/aloha/

 


FMラジオ<2000.6.11>

 今の世の中、いろいろなメディアがありますが、ラジオは音だけなのにとても健闘していると思いませんか。車を運転しながら、家事をしながら、仕事をしながらでも聴けるところが魅力でしょうか。テレビより早くから、視聴者の声をハガキや電話で取り入れて、視聴者参加型のメディアに育っているところもいいですよね。
 私が興味を持って聴いていた番組で、「欠席裁判ショー」というのがありまして、これは投稿者が、恋人・友人間や職場で「これは間違っているんじゃないか」と感じたことを、全視聴者にYES・NOで投票してもらうコーナーです。昼間の3時という時間帯から見て、投票者は圧倒的に主婦が多いのではないかと思うのですが、多数決の結果が自分と違ったときには、「ヘェ〜」と驚いたりします。(残念ながら最近は時間が合わず、聴けない日々です。)
 内容は、軽いノリで聴けるネタ(「恋人がこう言ったのが許せない」とか「職場の後輩の言動について」とか)なのですが、印象に残っているのもので「結婚して初めてのお正月に、旦那の実家に先に行かないのは、有罪か無罪か」というもの。私は、田舎ならともかく(私は田舎出身です。)、ここは首都圏だし、それほどこだわる人は少ないのではないかと思い、この投票結果は無罪だと思ったものの、結果は有罪。ふ〜ん、やっぱり都心でも、しきたりには従った方がいいんだと、妙な納得をしたのでした。
 ところで、引越しをした部屋では、FMラジオを聴くのに、窓を開けていないと電波が届かず、とても不便なのです。先日ようやく網戸を取り付けたというのに、網戸を閉めていると(ガラス戸が開いているのに)、電波が入らないのです。こんなことってあるんでしょうか?室内アンテナの張り方に問題あり?解決方法をご存知の方は、ぜひメールをください。<encha>


パソコンのない暮らし<2000.5.29>

 一週間、パソコンを修理に出していました。突然動かなくなったので「どうしよう」とアタフタ。自分の頭で考えられる限りの策を試してみたもののダメで、結局メーカーへ宅急便で送りました。ところが、しばらくしてかかってきた電話では、「パソコン動きますよ。」。情けないようなホッとしたような、複雑な心境。もともと、キーボードの接触不良かなと考えていただけに、宅急便で送られている間に、線がつながったのでしょうか。
 ところで、手元にパソコンがない状況に、体が慣れるのに3日かかりました。いつもパソコンの電源を入れる時間に「フッ」とパソコンラックを見てしまうのです。それほど、メールが来る訳でもなく、3日パソコンを使わなくても、なにも困りはしないというのに、です。習慣って体に染み着くものですね。でも、3日目からは自分の時間が増えたような気分になり、読書三昧の日々でした。これって、テレビを修理に出した状態と似ています。テレビがない暮らしを経験した人がよく言いますよね。なければないで、時間を有効に使えたって。パソコンも、今や無意識につけては時間を消費しているんだなと実感しました。
 唯一テレビとの違いは、「双方向」ということでしょうか。テレビは自分が観るか観ないかだけだけれど、パソコンは、というかインターネット(&メール)は自分も発信しているので、パソコンがないと、行き来ができないということです。そういう点では、ないときの不便さは電話に近いです。
 パソコンが戻ってきたので、せっせと、HPの更新を進めます。でも、読みかけの推理小説をぜひ読破したいので、もうしばらくは、パソコンのない暮らしを続けたほうがよかったかな〜。<encha>


気がつけば春<2000.3.30>

 ずいぶん、HPの更新をサボってしまいました。この3ヶ月を振り返ると毎週、誰かがかぜをひいていて、まさしく元旦の病院騒ぎの予感があたった日々でした。さらに言い訳をすると、1月から仕事を再開したことと、3月から引越しモードに入ったせいで、加速度的に忙しいのです。
 人間忙しくなると短気になります。このとばっちりを受けるのが子供。今までは待っていられた着替えや、道草に、「早く早く」を連発。かわいそうですね。子供の道草といえば、なぜああも物を拾って歩くのでしょう。石、ガラスのかけら、壊れて捨てられているあらゆるプラスティック、木切れ・・・。子供にとってはどれも魅力的なオモチャのかわりになるようです。でも親としては「よく拾ったね」とは言い難い。「汚いからすてなさい」と言って、また子供にうらまれます。
 道を歩くことは、大人にとっては移動にすぎなくても、子供は遊びに変えてしまう特技があるようです。道草をするには寒かった冬も終わり、ようやくポカポカした気候になりました。引越しまでのカウントダウンを心に響かせながら、せめて道端で見つけた草花を眺めるゆとりをもって春を過ごしたいものです。<encha>


今年をうらなう出来事<2000.1.10>

 あけましておめでとうございます。とうとう2000年がスタートしました。皆様どのようなお正月を過ごされたでしょうか?
 2000年だからというわけではありませんが、今年の元旦はいつもと違い、人に話せるような出来事がありました。一つは、「くじがあたった」こと。といっても景気のいい宝くじではありません。田舎の近所にある小さなお宮に二年参りにいったところ、「ただ」でひかせてくれるくじで、なんと1等賞が当たったのです。すごいでしょう。景品はなんと、懐中電灯!!(アレ?)まあ、「ただ」だから・・・。(ちなみに、ハズレは小さなマッチ箱です。」)昔ながらの生活必需品を景品にしている、小さな小さな神社での話です。それでも、1等というのは、くじ運のない私にしては「春から縁起がいい」話。と思っていたら、これで、1年分のツキを使い果たしたのか、元旦の、その日の午後に、腹痛を伴うかぜで、救急当番医のお世話になることに。それも、親子で。はきけ止めの点滴を二人で受けながら、情けない気分で元旦は過ぎていきました。
 かぜで気分が悪く、初夢も覚えていないので、今年のお正月はあまり、おめでたいとは言いがたいのです。本当に、懐中電灯1個で今年のツキが終わりでは、あまりにも悲しい。懐中電灯なだけに、これから先を明るく照らしてくれるハズだったのに。
 やはり、運は神頼みでも、夢は自分で引き寄せないとなかなか実現しないもの。元旦に計は立てなかったけれど、今年も1年、前進できるよう気合を入れましょう。さて、どのような2000年になりますでしょうか。<encha>


ファミリークリスマス<1999.12.20>

 今年も残りわずかになり、年末のあわただしさの中にいます。ところで、ここ数年、家族で過ごすクリスマスは、12月23日になってしまうのは我が家だけでしょうか。24日は平日の場合が多く、残業や忘年会で子どもが起きているうちに全員そろうのは難しい。となると、敬謙なクリスチャンではない我が家は、1日早くイヴとなってしまいます。その上、「25日の朝めざめると枕もとにプレゼントが」という定番さえ、その日に変更。プレゼントをもらって喜ぶ子どもの姿をみながら、食事になってしまうのです。だって、平日の朝、子どもがプレゼントをもらっても、ゆっくり遊んでいられないし、おもちゃを取り上げて出かけるのは、余計にかわいそうな気がしてしまうのです。
 しかしながら、こんなことをしていると、我が家の子どもたちは、クリスマスとは23日の祝日のことと思って大きくなってしまいそう。更に、寝ているうちにサンタクロースが届けてくれるというお話も、実感できなくなります。かといって、父親不在のクリスマスが子どもの頃の思い出では、それもかわいそう。
 クリスチャンでない私にとって、クリスマスは、夢や思いやりの心を感じることができたらいいなと思う日。国民の祝日が増えている昨今、12月24日25日も祝日にして3連休としたら、せかせかした世の中に少しはゆとりが生まれるかも。でも、年末の忙しい時期、休日出勤をする人が増えるだけでしょうか。<encha>


子連れ旅行<1999.11.23>

 旅行という大げさなものではないのですが、自宅からDoor to Doorで4時間ほどかかる田舎まで、子ども二人を連れて往復しました。大人一人に3歳児と9ヶ月児というのはやはり大変。公共機関である高速バス車内の過ごし方は悩みの種です。行きの車中は、9ヶ月児にミルクを与えるとしばらくして眠ったので、ぐずることはほとんどなかったものの、帰りは、眠いのにうまく眠れず泣いたので、冷や汗もの。9ヶ月児がぐずると3歳児も連鎖反応でぐずり、二人に体によじ登られ、それをあやす。まわりに迷惑をかけないようにと3歳児には「静かにしてね」「いすをけらないで」「小さい声で話そう」と延々と言っている状態。途中のパーキングで外に出ると、子どもも気分転換になったのか、その後はおとなしく座席で静かに遊んでくれ、ホッと一息。
 旅行で困るのが、荷物とトイレ。行きは宅急便で着替えの入ったバッグを送り、移動中に必要な荷物は自分と子どものリュックへ、さらに手提げ紙袋を持って9ヶ月児を抱いてタクシーに乗り込みました。帰りは、バス停まで送ってもらったこともあり、これに大きなバッグも。降りるときに、どう考えても手が一つ足りない。勇気を出して運転手さんに「降りるときに荷物が・・・」と声をかけると、ちゃんと最前列まで運んでくれました。ありがたや。
 トイレは、まだ一人で立てない子どもをトイレの壁に寄りかからせて自分の用を足さなければならず、さらに3歳児がふらふら歩き回るので気が気ではない。一番奥のトイレでドアを開けたまま、声をかけながらという、恥も外聞も捨てなければできないものの一つです。こういうとき、男性なら抱っこしたまま用が足せていいなあ、などと考えてしまう。
 今回の移動中の親切な人。<1>先の運転手さん。<2>車内から電話をかける予定が電話がついていないバスで、困っていたら携帯電話を貸してくれた若いお姉さん。<3>休憩所で、3歳の息子に「えらいね。お母さんのお手伝いができて」と声をかけてくれた女性。息子は哺乳瓶を洗っていたのだが、その後とてもご機嫌だった。旅行中は、親としてとても緊張しているが、ほんの一言声をかけてもらうだけで、うれしいものだとしみじみ感じたのでした。<encha>



拾う神あり(落し物後日談)<1999.10.29>

 お財布が戻ってきました。落としてから5日め、拾われた方から連絡があり、現金以外の全てが無事帰還。「不幸中の幸い」でした。推測するに、最初に拾った人が、現金だけを抜き、お財布は通行途中の塀の上に置き去りに。それを2、3日して別の人が見つけ、交番が近くにないので持ち帰ったようです。「捨てる神あれば拾う神あり」です(ちょっと意味が違うかな)。現金は既にあきらめていたので、免許証他のカード類が無事で、本当にほっとしました。善意とはありがたいものです。
 今回の財布紛失でわかったこと。<1>落し物は拾った人も手間がかかる。今回は交番を介さず、直接拾い主に会って受け取ったのですが、話を聞くと、交番では手続き書類にいろいろ書かなければならないそうです。落し物は、時間的余裕のある人に拾われたいものだ。
<2>カード会社の手続きは迅速。電話をして2日目には新しいカードが送られてきた。さすがです。銀行は店頭に足を運ばなければならず、さらに支店間の連絡、照合に意外と時間がかかり、発見連絡後から4日後に使用可能になりました。
<3>落とした財布が自分のでなくてよかった。現金は少ないけれど、カード類がとても多い。キャッシュカードばかりでなく、いろいろな店のメンバーズカード、図書館のカードなど、もしなくなったら再発行の依頼をするものが10枚はある。金券が主な“こまちゅ”の財布と比較して、時間的ロスは計りきれない。
 というわけで、みなさん、お財布の取り扱いにはくれぐれもご注意を。<encha>


落し物<1999.10.11>

 “こまちゅ”が財布を落としました。お札何枚かと運転免許証、銀行カードにクレジットカード、ハイウェーカードに近所の銭湯のサウナ回数券、当たり馬券に今年のクラリオンガールのテレカ(“こまちゅ”曰く「いつかプレミアがつく」)まで入ったおサイフ。「全財産」といっていいほど大切なものが入っているのに、“こまちゅ”はいつもズボンのお尻ポケットに入れて持ち歩く。いつかこんな日が来ると思っていましたが、とうとうその日がきてしまいました。
 スーパーの駐車場か、家の近所で落としたと思われるのに、今のところ連絡もなく行方不明中。やっぱりお財布は帰ってこないものなのでしょうか?以前、何かのアンケート結果に「10万円拾ったら交番に届けるけど、2万円なら届けない」というものがあった。拾ったものをネコババすると罪になると知ってはいても、誰も見ていなければもらっちゃおうという気になる。まあ、そんなものです。落とした方に落ち度がある。
 だいたい、お財布をお尻ポケットに入れて歩く習慣を指摘されても「この十何年、落としたことも、すられたこともない」と自慢していた。バッグを持たない人は仕方ないのかもしれないけれど、最近は子供を抱いての外出が多く、そうなると、一人で歩くときとは身支度を変える必要があると思われる。子供は、足をバタつかせるし、抱きかえるたびに洋服が引っ張られる。ポケットから物が落ちる確率も上がるというものだ。
 お財布をなくすと、現金の痛さもさることながら、免許証再発行の手間が面倒。あれこれ考え、何も手につかない休日を過ごしたむなしい時間的喪失も計り知れない。でも、もしかしたら拾った人が忙しくて、まだ交番に届けていないだけかもしれない。それを願って「プリーズ カムバック おサイフ〜」<encha>


パソコンは簡単か<1999.9.19>

 実は今、このホームページを作っているソフトの調子が悪く、一部うまく表示されていないのです。何が原因か、いろいろ調べたりインストールや削除を繰り返しているのですが、今だ回答がでません。サポートセンターはもちろん、パソコンに詳しい知人にも、迷惑を顧みずしつこく聞いています。
 パソコンは随分と操作がわかりやすくなりました。特別な操作プログラムは覚えなくてもいいし、キーボードからの入力が苦手な子供だって、マウスひとつでお絵かきぐらいはすぐ習得できます。私のまわりでも、自宅にパソコンを持つ人が増え「ああ、パソコンが家庭にある時代になったんだなあ」と、その浸透ぶりを実感させられます。
 でも、今回の不調に、私はお手上げです。一応、10年以上コンピュータに触れていても、専門的にプログラムを勉強したわけではない自分には、システムのどこをいじればいいのか見当がつきません。荒業として、ソフトを買いかえるぐらいしか、方法が思いつかないのです。
 というわけで、「パソコンは簡単か?」というと、「奥が深い」ということでしょうか。快適に使い続けるには、同じ操作(ソフト)だけでなく新しい操作(ソフト)も覚えたい。でも、どこかでつまづくこともある。それにめげずに階段を上っていかないと、次なる段階へ行けない。今はつらいです。<encha>


インターネット<1999.9.5>

 今やテレビを見ても、新聞雑誌にもホームページのアドレスが書いてあります。今まで、何か資料を送ってほしいときは電話をかけていたのが、ホームページを見れば大体詳しい説明がのっている。商品情報、レジャー情報、地図などなど、知りたいときに自宅で調べられるというのは便利に違いない。
 でも、気になることは、通信費だ。だって、今までは「お問合せ先」のフリーダイヤル(通話料無料)にかければ先方が郵送料を負担して資料を送ってくれたのに、ホームページからの情報はすべて自分で通信費を払わなきゃならない。「せこい」ということなかれ。どうしても、この違いが気になるのです。
 話は飛びますが、以前読んだ話に「インターネットは巨大なボランティアで運営されている」というような内容の記載があって、世界中で利用できるインターネットは一企業が利益のために運営しているものではないという。管理している組織はあるらしいけれど、基本的には各プロバイダを仲介してインターネットに加入している人それぞれが、インターネットの運営者ということになるらしい。
 数あるホームページの中には、「本当にタダでこんな情報を教えてくれるの」「こんなソフトももらえるんだ」という、うれしいページがある。これこそボランティア精神に則ってるよ、と感動する。でも、逆に見ないほうがよかったというページもある。インターネットは自己の責任において発信と受信をするものだとつくづく感じる。
 「ボランティア精神」のもとに考えれば、市内通話料ぐらい大した事ではない。でも、企業が利益のために開設しているホームページへのアクセスは、やはり通話料無料になってほしいなあ。これって、やっぱり、せこい?<encha>


絵本の魅力<1999.8.30>

 第1回目のコラムなので、まじめに「絵本」について考えてみました。
 私にとっての絵本は、子供に読んであげるものというより自分が楽しむものです。もともと絵本について詳しいわけでは全くなく、今でも、「定番」と呼ばれているもので読んでない絵本がいっぱいあります。子供の頃読んだ記憶がある本といえば「ぐりとぐら」ぐらい。
 子供ができて、いろいろな方たちと知り合い絵本を読むようになりました。絵本をたくさん読んで感じることは、「絵本って早く読み終えられるから好き」ってこと。おもしろくても、おもしろくなくても短時間で読める。育児中でも活字中毒の私にはもってこいなのです。
 そもそも、子供が小さいと,新聞も読んでられない。私が読んでいると邪魔をしに来ます。びりびり破かれる。言葉をしゃべるようになるとはっきり「しんぶんダメ〜」と叫びます。だから、小説などの単行本を集中して読むことは無理。でも、母だって知的好奇心を止められない。そこで絵本です。
 絵本の世界はまだ未知なので、なんでもOK。そして、本心は自分の知的好奇心のためであっても、表向き子供のためという大義名分もつく。実際、子供の「ふふっん」という笑いや、絵本の言葉を自分で繰り返し言っている姿をみると、満足感があります。何より、自分が選んだ本に子供がはまってくれると、「やったー」って感じで、「そうよそうよ、この本いいでしょ」と鼻高々なのです。これで母・子、一挙両得。
 「子供に絵本を読んであげることはいいこと」という子育てのセオリーにしばられることなく、「自分が楽しいから子供にも」の気持ちで絵本を読んでいます。<encha>